こんばんは。
さがみさがなかです。
本日で、東日本大地震から8年が経過しました。
当時、東京に勤務しており、あの日の事は忘れられません。
週末の金曜日、もう一息頑張ろう。
15時半の中野でのアポイントメントに合わせて外出するべく座席を立った瞬間に、激しく揺れ始めました。
長い揺れで、いつ終わるのだろうと不安になりました。ワタクシがいたフロアは3Fで、物が倒れたりはありませんでしたが、キャビネットの軋み音が響き不気味でした。
取り敢えず向かおうと、部長と外に出ましたが、会社の最寄駅は駅員が、ホームや改札から退場するように伝え回っていました。
持っていたポケットラジオで、東北地方で大きな地震があり、大津波警報が発令されていることを知りました。
どうしようもないので、事務所のある建物に入り、エレベーター(これは間違い)に乗った瞬間に、激しい余震が。
エレベーターが止まりました。幸い、事務所のある3Fでした。
ふと、妻は大丈夫だろうか?
本日は銀行のパートの筈。携帯に電話しましたが、回線がパンクし繋がりません。
幸いにも、PCのフリーメールで安否確認が出来ました。
暫くして、交通機関が動いている人は帰宅するよう、通達が出ました。
方面が一緒なら社用車を使用しても良いと。
当時神奈川県西部に住んでいました。
神奈川方面の電車はほぼ全て運転見合わせでした。
部長含めた上司と事務の方が横浜や藤沢だったので、車で皆で帰ろうという話にもなりました。
しかし、会社の近くの山手通りや第二京浜の激しい渋滞と、歩道から溢れてしまう程の徒歩で帰宅する人々を見て、帰宅を諦めました。
これは本当に正解でした。
電気、水道、インターネットが使え、会社にあったカーペットで寝ることも出来ました。
ただ、何度も鳴る緊急地震速報と各地の被害の状況が気になりインターネットで調べていて、ほとんど眠る事が出来ませんでした。
妻はパートから早く帰宅し、一人で過ごしました。相当心細かったと聞き、自分は恵まれていたと改めて思いました。
翌日、一部の電車がなんとか動き、11時過ぎに帰宅出来ました。
疲れましたが、妻にも会え安心しました。
そしてすぐに乾電池やポリタンク等を買いにホームセンターへ行きました。
ワタクシの3・11は、こんな一晩でした。
この後は、電車が暫く動かなくなったり、計画停電があったりと、大変な日々が始まるのです。
復興に向け歩みを進めている被災地と、その住民の方々、色々な活動をされている方々、未だに故郷への立ち入りが規制されている福島第1原発付近に暮らしていた住民の方々、
辛い思いをされている方々と、そうでない人々が、この国にいます。
ワタクシは、そうでない人間だからこそ、もう少し東北に意識を向けるべきと改めて感じました。
改めて、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしますと共に、被災された方々へ心よりお見舞い申し上げます。